本日は、木曜日夜の会がお休みだったので、
一曲名曲を紹介します
今年も12月となり年末期間となりました。
年末と言えば、ベートーヴェンの第九が有名です。
コロナの影響で、演奏回数が減ってしまっているようにも思いますが、この年末に第九の合唱に出演する事になりましたので、久しぶりに第九の楽譜を眺めています
私たちの活動では、ミサ曲を練習する事があり、現在課題曲の一つとしてフォーレのレクイエムから最後の曲に取り組んでいます。モーツァルト、ヴェルディ、フォーレのレクイエムが現代では3大レクイエムと言われています。
第九の歌詞
Freude schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische dein Heiligtum!
歓喜よ 美しき神々の御光よ
エリュシオン(楽園)の乙女よ
我等は情熱と陶酔の中
天界の汝の聖殿に立ち入らん
第九の歌詞は、シラーの作詞に感動したベートーヴェンが使っているのですが、キリスト教の神様を意識してクラシック音楽の作曲家を見る時、なぜ、エリュシオンなのか?がベートーヴェンの宗教感を表しています。
ベートーヴェンの暮らしたオーストリアは言わずと知れた
キリスト教の国で、現在でも78%の国民がカトリック教徒と言われています。
オーストリアでは、教会税という税金が導入されているので、この数は実数であると推測できます。
つまり、ベートーヴェンの時代は、もちろんカトリック信者が多かったはずです。
しかし、エリュシオンは、キリスト教の天国ではなく、古代ギリシアの神話の中の天国です。キリスト教では、最後の審判の後に行く場所がどこなのか?というのは具体的にはありません
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(ヨハネの黙示録21)
1 わたしはまた、新あたらしい天てんと新あたらしい地ちとを見みた。先さきの天てんと地ちとは消きえ去さり、海うみもなくなってしまった。
2 また、聖せいなる都みやこ、新あたらしいエルサレムが、夫おっとのために着飾きかざった花嫁はなよめのように用意よういをととのえて、神かみのもとを出でて、天てんから下くだって来くるのを見みた。
3 また、御座みざから大おおきな声こえが叫さけぶのを聞きいた、「見みよ、神かみの幕屋まくやが人ひとと共ともにあり、神かみが人ひとと共ともに住すみ、人ひとは神かみの民たみとなり、神かみ自みずから人ひとと共ともにいまして、
4 人ひとの目めから涙なみだを全まったくぬぐいとって下くださる。もはや、死しもなく、悲かなしみも、叫さけ
びも、痛いたみもない。先さきのものが、すでに過すぎ去さったからである
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フォーレのレクイエムに出てくるイエルサレムが出てきますが
そこはまた考察するとして、、
エリュシオンという表現に感動を覚えるベートーヴェンは敬虔なカトリック信者ではないという事が分かります。
事実、ベートーヴェンはキリストの事を、「磔にあったユダヤ人」と評していたのは有名な話です。
ミサソレニムスを書き、レクイエムを書かなかったベートーヴェンを考察するとき
この辺に視点を当てると面白い論文が書けそうです(笑)
そんなベートーヴェンの葬儀には、2万人の人が押し寄せたそうです
この辺は、シンドラーが仕組んだという視点の本もありますので、ご興味のある方は検索してください
ベートーヴェンの葬儀では、当時、ベートーヴェンよりも人気があったケルビーニのレクイエムが
モーツアルトのレクイエムと並んで演奏されたそうです
ケルビーニは、フーガと対位法という著述を残しており、作曲科を志す若者には割と早い時期から今でも親しみやすい名前?ですが、当時はベートーヴェンを超える人気があり、ベートーヴェン自身も、「もし自分がレクイエムを書くならば、ケルビーニのようになるだろう」と言っています
今日は、そんなケルビーニのレクイエムの動画を紹介します♪
とても美しい曲です
現代における
ベートーヴェンの評価を作り上げられた?
という視点での考察本